『Better half』
ベターハーフ〔名〕
「我が良き半身」
自分の片割れ。伴侶のこと。パートナー。愛妻。
世界中のどこかに必ずいるであろう、唯一の存在。
りつ~八月中旬~
独り暮らしのアパートの玄関は、妙に狭い。
乱雑に並べている多くの靴が、更にそれを顕著にしている。
その中の一つに足を通すと、爪先を軽く二、三度床に打ち付け、外に出る。
室内との温度差に、自然と溜息が出た。
摂氏三十八度のくそがつく暑い一日、
その中でも特に暑さを増す時間帯。
薄暗い階段を下れば、強い光に瞬きを強制され、手をかざして宙をあおぐ。
手を伸ばせば届きそうな程に空は近く、雲一つない。
風一つ吹かなくて、どこまでも暑くて、どこまでも晴れで。
狂気にも似た紫外線は、極太の針で体を突き刺し、
ねっとりと纏わりつく熱気は気持ち悪い。
今年お気に入りのクレリックシャツから伸びる腕には、
もう汗が一筋流れ出している。
アスファルトも熱で焼かれ、
それ自体が、触れたら火傷をしてしまう温度なのだろう。
その証拠に、数歩先の道路では、
下から上に昇る熱で蜃気楼のように揺らぎ、水があるように見えている。
こういうの、何て言ったっけ。
ああ、確か“逃げ水”だ。
近づけば離れていく、決して掴まえられない。
俺は、木陰の間と間を縫い合わせるようにダラダラ渡り歩きながら、
バイト先のコンビニへ向かう。茹だる体、流れる汗。
中々進まない足取りと無駄な熱量に、ジレンマを感じる。
一歩前進すれば、気持ちは二歩後退する道のりに、足は重くなるばかりだ。
そろそろバイトも潮時かもしれない。
「はよーございます」
バイトは、高等部一年の頃から始め、
もう四年目になる。
俺が通う真誠学園から程よく近いこのコンビニでは、通常、
昼飯を買いに来る高等部や中等部の学生服で溢れているのだが、
さすがに夏休みに入ると疎らだ。
部活やら夏期講習やら、
この暑いのにご苦労なことだと、手を打って賞賛したい。
「あ、メール」
バイト中だと意識はあるが、気にせず携帯を覗き見る。
慣れた手つきでメールを開くと、
合コンというタイトルに、時間と場所、メンツがつらりと書かれていた。
誰かが来られなくなったのだろう。
本日付の開催と、適当に抜けて良いという一文で、自分が穴埋め要因だと察する。
俺は、こうやって撒き餌役にされることが多い。
実際、熱い視線と笑顔を向けられることが多々あるし、行く度に告白を受ける。
飲み会は嫌いじゃないし、女の子に好かれるのも悪い気はしないが、
本気で惚れられると面倒なので、こういうのにはたまに顔を出すくらいで留めていた。
ふむ、と一呼吸悩み、
一応客の死角になるレジの隅に移動し、返信を打つ。
生憎今回は、行く気分になれない。
明日も飲み会を控えているし、今日は辞退する旨を伝える。
適度な長さの文に、適当な顔文字をつけて送信し、レジの前まで戻る。
臙脂色の制服を着た少年が、ペットボトルを片手に待っていた。
お待たせしましたすみません、と早口で伝えると会計を行う。
「ううん、大丈夫。待ってないよ」
そう言って渡された飲料水が、ささくれた記憶のものと一致し、動揺する。
その瞬間、レジ画面に映し出された日付が視界に飛び込み、手が止まった。
俺は、気にしないそぶりで金額を告げ、お金を受け取る。
大丈夫だと、自分に言い聞かせた。
いや、気にしないようにするという行為そのものが、本当はアウトなのだが。
何故、未だに気にしてしまうのだろうか。
もう二年も前になるというのに。
――“逃げ水”
あいつも、あいつと俺の関係も、この言葉がふさわしい。
近付けば離れていく。決して掴まえられない。
これ程までに言い当てて妙なことはないと思って、少し自嘲気味に哂った。
高等部の頃、俺は西棟の男子寮寮長を務めていたし、生徒会の書記としても活動していた。
だからといってガリ勉、暗いというイメージはないはずだ。
常に明るく、人付き合いも良く、フットワークも軽い。
多少自覚のある見目の良さから、学年でも目立つグループに属していた。
優秀であり、かつ、お洒落なイケメン彼氏であること。
それは全部、あいつが望んだ事で、
七つも年上の彼女に釣り合うため、俺は中身も外見も、イイ男でいる為の努力は怠らなかった。
それが付き合う条件だったからだ。
あいつと俺は、最初は客と店員だった。
たまに来てはカフェオレを買う彼女が気になってしまった俺は、
自分から携帯番号を書いたレシートを渡したのを憶えている。
メールに返信が来た時なんか、馬鹿みたいに浮かれていた。
馬鹿みたいに素直なガキは、馬鹿みたいに彼女を追いかけ、馬鹿みたいに本気で愛していたんだ。
彼女が俺の唯一の存在だと信じて。
それなのに――……。
「ねぇ、お釣りは……?」
「え、あ……? あ、す、すみません!」
千円札をクリップに挟んだまま固まっていた俺は、慌ててお釣りを返す。
くすくすと、目の前の少年が笑った。
恥ずかしい。
いい加減気持ちを入れ替えるべく、少年を見送ると、冷たい水で手を洗う。
熱された体が少し冷えた気がする。
やはり近々、バイトは辞めよう。
普段思い出さない程度の小さな棘のくせに、たまに存在感を増すからうっとうしい。
あいつの為に環境を変えるのは阿呆らしいと思って続けてきたが、潮時だ。
早く忘れたい。
「…………」
――それでも。
そして、あいつの姿ではないことを確認し、俺はそっと微笑むのだ。
ほんの少しの悲しみを含んで。
「いらっしゃいませ」
俺はもう本気の恋なんてできない。
瀬名~七月後半~
『無題 翔先輩、暇なら遊びましょ~』
夏休みもまだ前半、クラスの女子とカラオケに行った帰り道、
まだ家に帰りたくなくて、公園でブランコに乗りながら携帯を弄る。
同じ学園のひとつ年上の先輩に構って貰おうと、メールを送信したのだが。
『Re: ごめん、無理。夕飯後に姉ちゃんと花火する約束してるから』
何ともそっけない返事が、ものの数秒で届いた。
「えー、何それ。ちぇっ、つまんない……」
もう他の人に連絡する気も起きなくて、仕方なく携帯を閉じる。
気がつけば日も傾き落ちていて、昼間と違う乾いた空気が漂っていた。
だけど暑さは変わらずそのままで、息を吸えば、夏の暑い空気が身体中に廻った。
昼間は人や車や緑に立ち並ぶ家、全ての影がテラテラしていて、
セロファン越しの世界のように思えたのだけど、今はただ白くて熱っぽい。
光は無くて、濃密な熱だけが残る時間帯。
空には薄くポツンッ、と白い月が浮かんでいた。
「“姉ちゃん”ね……」
翔先輩は、常にお姉さん中心で世界が回っている。
一番いちばん、誰よりも大切な人らしい。
本気でお姉さんを愛している、そう言い切れることが純粋に凄いと思った。
別段僕だって、恋愛に興味がないわけではないし、デートするのだってキスするのだって楽しい。
自慢じゃないが、僕がその気になればいくらでも彼女はできる。
席が隣のあの子でも、話が合うあの子でも、学年で一番可愛いあの子だって。誰でも。
でも、彼女たちに胸が苦しくなることも、常に一緒に居たいとは思わない。
本気で人を好きになるって何?
翔先輩みたいに、一人に固執する気持ちってわからない。
「よっ、と……。しょうがないかぁ、適当に散歩して帰ろっと」
ブランコから降りると、学園の方向に歩き出す。
別に目的なんてなかった。
ただ、慣れた道を歩いてみようと思っただけ。
「あっつ~……」
美しくも強くもない、特別でもない人工の光の中を歩いていく。
ちらほらと、幾たび人とすれ違う、いつもの通学路。
このくそ暑いのに、ネクタイをカッチリしめた営業マンだったり、
クールビズだかなんだか知らないが、やたらダラシなく見えるシャツを着こなすオヤジだったり。
はたまた仲の良さげな夫婦や親子や恋人だったりした。
この世界には数多の人間に溢れている。
一体生きている内に、何人と出会い別れていくのだろうか。
そして一生出会わない人も居る中で、人ひとりの特別な存在に出会う確率は、一体どれくらいなのだろう。
「………………」
翔先輩がお姉さんと出会った確率は、いくつだったのだろうか。
そして僕が、たった一人と出会う確率は?
考えても仕方がない。
分かっている。
でも、無性に答えが知りたかった。
答えを知った僕はどうなるのかな?
「何か、喉が渇いた」
ふと、一際眩しい光を彷彿しているコンビニに、
ふらふらと羽虫のように立ち寄る人々が視界に入る。
そういえば、通学路にあるのというのに、一度も入ったことがない。
学園に学食や購買があるのも理由のひとつだが、
コンビニ自体を利用する頻度が極端に低く、スルーしていた。
折角の機会だし、たまには入ってみようかと、
僕は雑誌が並ぶ棚付近の窓から、中を覗いてみる。
すると、栗色の髪が、瞳が、優しげな笑顔が、目に飛び込んできた。
全身の毛が逆立つような戦慄が背筋を伝う。
そしたら、僕はもう彼から目が離せなくなった。
僕の心臓が大きく震え、どくどくと熱を持つ。
初めての感情に、僕は戸惑いを隠せない。
それに反して、頭では警告音が鳴り響く。
危険だと、これ以上踏み込んでは元の自分に戻れないという予兆。
そして同時に、甘い囁きも聞こえてくる。
アダムとイヴを唆した大蛇のような甘さ。
彼らが禁忌の果実に手を出したように、
僕も彼の笑顔の先を覗き、触れてみたい。
どんな人だって構わない。
全部、全部受け止めてあげるから、本当の彼の姿を見てみたい。
翔先輩と同じように、僕もたった一人に出会えた。
見つけてしまった。
嬉しくて、つい漏れる笑いをかみ殺しながら、店に足を踏み入れる。
その間も、僕の想いは風船のように膨らみ続けて、
「いらっしゃいませ」
膨れ上がったそれは、彼の声と匂いをリアルに感じた途端、
パチンと音を立てて、弾けた。
そして、割れた箇所から黒い独占欲が湧き上がって、
僕を飲み込み支配していく。
彼が好きだ好きだ、好きだ。
時間なんて関係ない。理由なんて知らない。
うん、彼が欲しいならば作戦を練らないと、ね。
これから、これからだ。
僕の恋は始まったばかり。
由浩~七月前半~
真夏とはまだ言えない太陽が、それでも強い光で垣辺を焦がす。
平日の昼下がり。
ひとり、御影石で出来た墓に手桶で水をかける。
学校の帰りに寄るであろう息子の為にも、最低限綺麗に整えていく。
掃除を終えると最後、花ばさみで長さを整えた桔梗を、花立てに飾りつけた。
「うん、綺麗だ」
盆より一週間程早いこの日は、妻の命日だ。そして、息子……瀬名の誕生日でもある。
瀬名を産んだ直後に亡くなった彼女は、私にとって最高の配偶者だった。
良き理解者で、良き同居人で、良き親友。
「この子を頼むわね。……彼女とやっと会えるわ」
彼女が死ぬ直前、私に残した言葉だ。
……そう、彼女には好きな女性が居た。
「私たちはね、互いが自分の片割れ同士なのよ。アンドロギュノスなんだわ」
「ふむ、アンドロギュノス……。古代ギリシャの哲学者であるプラトンの著書、「饗宴」か。
古代最初の人間は、男と男、女と女、そして男と女を背中で組み合わせた三種類だった、という話だろう」
「そうよ。……そんな詳しくは知らなかったけど」
「しかし、アンドロギュノスは男と女のみを指し示しているのであり、
正確には、きみたちは男と女ではないから――」
「……相変わらず、頭でっかちね。いいのよ、呼称なんてどうでも。
私たち人は、全員アンドロギュノスなの。そして、彼女は私の半身。
だから私は彼女以外、愛せないの。きっと、あなたにもそういう人が現れるわ」
そう言い切る彼女の瞳は、強く綺麗だった。
しかし、それから間もなく相手の女性は彼女を置いて逝き、
彼女は日に日に衰弱していくこととなる。
そんな彼女を、親友の私は放ってはおけなかった。
昔から男しか愛せなかった私と、女しか愛せなかった彼女との奇妙な同居生活。
それは何年も続き、彼女が笑顔を取り戻す頃、私たちは子どもを望んだ。
愛とは違う。同族愛、憐憫や同情の類に近いものだったのかもしれない。
だけど、私たちは長い年月をかけて、夫婦になり、家族としての形を成そうとしていた。
だが、彼女の体は子どもを産むには小さく弱かった。
それでも彼女は、きっと瀬名を産んだことを後悔していないだろう。
“死”
死を代償に、彼女は私と共に生きた絆を残し、
愛しい人と一生共に世を送る権利を手に入れた。
「きっと、あの世で幸せにやってるんだろうね、きみは」
手を合わせると、柄杓と桶を抱え、その場を後にする。
瀬名の誕生ケーキをどこかで買って帰ろうか。
『――――』
墓から、彼女の幸福に満ち足りた声が耳に届いた気がした。
「…………」
私は、それなりに幸せだ。
仕事も順風満帆で、瀬名も元気に育っている。
が、時に頭に過る、漠然とした焦燥感。
彼女は一人の女性を愛し、私の元を去って行った。
息子も暫しすれば心も体も成熟し、唯一無二の存在を見つけ、私から離れていくだろう。
――私だけが取り残される。
最期まで私の傍に居てくれる者は、誰であろうか?
私にとっての半身は、どこに居るのだろうか?
プラトンによれば人間は各々が半身に過ぎないという。
つまり、不断に自分の半身を求めさせられているのである。
それでも相互の求めが愛という衝動ならば、私は探し続けたい。
「ああ、何か飲み物を買っていかないといけないねぇ」
ケーキを購入し帰る途中、何も飲み物がないことに気づく。
普段ならば、入ることのないコンビニに足を延ばす。
「いらっしゃいませ」
一瞬、そう一瞬だ。
彼の姿を捕らえた刹那、血の巡りが速くなり、
常ならず何かが、私の体に入り込み、定住したのを抱く。
どことなく彼女に似ている。清冽な瞳。
そしてまた、私にも相似ている。見目ではなく、どこか心が。
空の心に、熱が孕み、火が燈る。
『恋の炎に身を焦がす』
『嫉妬の炎に焼かれる』
世間一般は恋の炎をそう表現するが、さてさて激しいばかり火だけではない。
静かに燃ゆる青い炎の方が熱いのだ。
「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」
私も見つけたよ、半身を。
さて、彼の為に私が出来得ることをしなければ。
私は恋にこの身を焦がそう。